先週末から4連続で「大学の歴史」に関するブログ記事を書いてきました。大学の歴史を考えていると、そもそも「新たな知を創出するコミュニティはいかに生まれるのか」ということに興味が湧いてきます。
そこで今回は「大学の起源」に関してあらためて少しおさらいしつつ、このテーマについて考えていきたいと思います。今回の参考文献はこちらです。
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以前のブログでも少し書きましたが、大学の起源は12世紀にまでさかのぼります。大学は古代の学問の中心地であったアテネやアレクサンドリアではなく、パリとボローニャで誕生しました。初期の大学には「いまの大学には必ずある当たり前のもの」がどれもないというのが驚きます。
図書館、実験室、博物館、大学自身の建物、大学の理事会、大学の新聞雑誌、演劇、運動競技などなど、これらは全部なかったのです。
また、大学の起源というのは実は創設者が明確なわけでなく、いつから始まったかはっきりわからず「自然発生した」といえるものが多いらしいです。これも面白いですよね。
「大学(ユニバーシティ)」という言葉は、もともと「グループ」とか「団体全般」を意味していただけらしいんですよね。つまり、「サークル」みたいな意味でしかなったのだと思います。
それがのちに「教師と学生のギルド」に限定され、「大学は教師と学生の組合である」ということになり、さらに、学生たちの「組合(ユニバーシティ)」、教授たちの「教師組合(カレッジ)」ができていくことになります。
いまの大学からはまったく想像できないですね。
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つまり、大学の起源をたどると、おおざっぱですが
・創始者がだれかわからず自然発生的にでてきたもの
・教師と学生の集まり(ギルド)であった
・建物などを持たずに、自由に移動していた
という特徴があると思います。
この特徴だけみると、いまっぽいかんじもしますよね。歴史を振り返って現代を考えてみると、「新たな知のコミュニティ」が生成されるときに似ているようにも思えてきます。
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このように「大学の起源」などを考えていくと、僕は大学に所属していますし、大学教育に関連する研究をしていますから、「大学の未来」について考えたくなります。しかし、大学の歴史を振り返ってみると、結局は「大学がどうこう」というだけではなくて、「知の生産の中心となる場所はどこなのか」という大きな問題とリンクしているんですよね。
近代(16世紀から18世紀)では、知の生産の中心が「大学以外だった」といわれています。しかし、仮に大学が「知の生産の中心」でなくなったとしても、その役割を担う機関自体は必ず存在しているわけです。となると、現代ではどこがその役割を担うのかというのは色々考えてしまいます。大学がそうなるのか、もしくは別の場所が発達してくるのでしょうか。
そして当たり前ですが「コミュニティ」をつくるのは「個人」です。新たに何か挑戦したいという人たちはどの時代にでもいるでしょう。そうした個人にとって魅力的なコミュニティはどのような場所で、どんな人たちが、どこに、どのようなかたちで集まっていくのかは個人的に興味があります。
例えば、「Cafeから時代は創られる」という飯田美樹さんの本などもありますよね。
さて、長くなったのでここらで切ってみようと思います。今回は大学の起源から「新たな知を創出する役割を担うコミュニティ」について考えてみました。答えはもちろんありません。しかし、こうした思考実験をしておくことは、自分がどのように生きるかということを考えても重要なことだと思います。
「大学の歴史から考える」は今後もつづくかもしれません。
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