「不便」というと、基本的には気が利かないかんじがしていやなイメージがありますよね。でも、それなりに不便だからこそ、「余白」の部分があるので、気づいたらこっちがついついがんばっちゃったり、カスタマイズの余地があったりして、かえってやる気がでてしまうということもあるのではないでしょうか。

例えば、いつも使っている教室や研修ルームなどが微妙に使いづらいときに、「もっとこうすればいいんじゃないか」みたいなかんじで、ついつい主体的になってしまうみたいなことはあるのではと思います。

このように、ある種の「ちょうどよい不便さ」というのは、かえって周りの人のやる気を引き出すことになったりするものだと思います。

「完璧なもの」もいいのですが、完璧すぎると、「だったらそれでいいよね」となり、完全にお客さんモードになってしまい、かえってやる気がなくなるみたいなこともあるからですね。

最近はこの「ちょうどよい不便さのあんばい」とはどのくらいのものかということを意識しています。

「ちょうどよい」としたのは「単に不便」だったら、「じゃあ別のものでいいや」とか「不便すぎてやる気がしない」ということになるわけですよね。「うっかり手伝っちゃう」くらいの不便さというのは実はけっこう絶妙なバランスなんだろうなと思います。

そしてこれは案外と「人」や「リーダーシップ」にもあてはまることかなと思っています。

「完璧すぎる人」だと、「自分でやってよ」となり、「少しくらい余白がある人」だと「しょうがないなあ」になり、「ぐだぐだなひと」だとそれはそれで「自分でやってよ」になりますよね笑

この「しょうがないなあ」の範囲とはどのように形成されているのかというのが最近の関心です。もちろん、これは「する側」「される側」の相互のインタラクションによって生み出されているものだと思うんですけどね。

今日は「ちょうどよい不便さ」について書きました。

「やる気のでちゃうちょうどよい余白」ってなんなのでしょうね。