仕事をするにせよ、大学の授業でなにかプランをつくるにせよ、他者からのフィードバックはとても重要です。

・プランのどこがよくて、どこを改善しなくてはならないのか?
・自分のふるまいの何がよくて、何を改善するべきなのか?

これらを自分一人だけで判断することは難しいでしょう。自分が次にどのようなアクションを起こすかを検討する上で、フィードバックは貴重な情報源となります。

その貴重なフィードバックなのですが、そもそもフィードバックは「もらえるもの」なのか、それとも「もらいにいくもの」なのでしょうか。

この認識は「学ぶ」とか「成長する」という意味で大きなわかれめになるのではないかと思っています。後者の認識を持っている人は強いように感じるということですね。

これはある意味で「学校的」か「職場的」かとも言い換えられるのかなと思います。

学校的に考えるとフィードバックは何もしなくても「もらえるもの」という認識が強いのかなと。これがどんどん職場に近づいて行くにつれて「フィードバックは自分からもらいにいくもの」という認識が強くなっていくのかなと思います。

今回これをなぜ取り上げたのかというと、大学の授業で「フィードバックの機会」をどのようにデザインしようかと考えているからです。

授業としては「最低限必要なフィードバックの機会」は担保したいと思っています。一方で、全て手取り足取りデザインしてしまうと「フィードバックはほっておいてももらえるもの」として認識されてしまう可能性があります。

大学は「学校と職場の橋渡し的な環境である」ということを考えると、これはまずいのかなと。授業をデザインしすぎることでかえって学生を受動的にしてしまうという危険性があるということですね。

もちろん、だからといって「一切フィードバックをしない」というのも極端でしょう。

最低限のフィードバックの機会は必要といえます。ただし、これは「最低限(ミニマム)の担保」であって、必要性を感じたら、どんどん自分から情報を取りに行くということが大事になってくるのかなと思っています。

このあたりの「教育環境のつくりこみ」と「学生が能動性を発揮する余地を残すこと」のバランスは毎回頭を悩ませるところです。ポイントは、デザインする側の意図と、受ける側の意図をうまく重ねることなのでしょうね。

デザインする側は「余白」を残し、その代わりに「提案を受け入れる」ような環境をつくり、受ける側も「全て人任せ」ではなく、必要なことは自分からアクションすることで余白が埋まるものだという共通認識が重要になってくるのかなと思います。

そうでないと、以下のようなことが起こってお互いうれしくない状態になってしまうと思います。

教える側:フィードバックなんて自分で取りにくるものなのに、全然求めてこない。

受ける側:全然フィードバックをしてくれない。もっとちゃんとしてくれる人がよかった。

今回はフィードバックに対する態度の話を書きました。この話はフィードバックに限らず、受け手の主体性を奪わずに、学びの機会を担保するためにはどうしたらいいのか?ということにつながっていくと思います。

なんでもかんでも面倒を見すぎず、一方で、受け手もなんでもかんでも面倒を見てもらおうと思わない、両者が自律したような環境をどのように作っていくのか、についてはまだ色々と議論が深められそうかなと思っています。

このあたりがアクティブ・ラーニングなどの議論でもキモになってくる部分じゃないかと思います。

【関連する書籍】

いまこちらの書籍を読んでいますがなかなか面白いです。今回取り上げたフィードバックに関する内容です。特に「フィードバックをどう受け止めるか」に焦点があたっています。

ハーバード あなたを成長させるフィードバックの授業
ダグラス・ストーン シーラ・ヒーン
東洋経済新報社
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